このコーナーでは、ポーランドが生んだユニークな作家(兼画家)ブルーノ・シュルツの作品を紹介してゆきます。私の拙い文章でどれだけシュルツ作品の魅力をお伝えできるかどうかわかりませんが、おつきあいいただければ幸いです。なお、文中の引用はすべて新潮社の「ブルーノ・シュルツ全集」(工藤幸雄訳)からのものです。
第3回 父の最後の逃亡

 高校生の時、国語の教科書で読んだカフカの「変身」が、今思えば、中欧に興味を持つきっかけでした。 あれから10年、ある日私は勤務していた学校の図書室で「東欧の文学全集」を見つけました。赤いカバーで、 古いけれどあまり読まれていないような、新古品のような全集。その中の「ポーランドの非リアリズム文学」 という巻に興味をひかれて、借りて帰ってはまりました。それがシュルツとの出会いでした。

 シュルツはカフカをポーランドに紹介した人であり、シュルツを「ポーランドのカフカ」と呼ぶ人もいます。 シュルツがカフカから影響を受けていることは確かですが、今回紹介する「父の最後の逃亡」 の変身のエピソードははるかにグロテスクで、気味が悪いを通り越して思わず笑ってしまいます。 私は、カフカとシュルツの違いは、カフカの小説では笑えないけれど、シュルツの小説では笑えるという点だと思っています。

 主人公はここでもユーゼフという青年です。ある日、外出から戻った母はうろたえながら、ハンカチをかぶせた皿をユーゼフに見せます。 ハンカチをとってみると、なんとそこには父の面影を残した大きなざりがにがいたのです。それは父がざりがにに変身した姿なのでした。
 作者の筆はざりがにの姿、動き、行動をたんねんに描写してゆきます。この種の生き物が嫌いな人が読んだら、寒気を覚えることでしょう。
 カフカの「変身」では、作者は虫の姿を描写しなかったので、読者はいろいろに想像することができます。 人によってコガネムシであったり、毛虫や蜘蛛であったりするでしょう。しかしシュルツは甲殻類の描写がしたいがために この小説を書いたのではないかと思えるくらい、微細に書き込んでいます。

 ざりがにになった父を一家はなすすべもなく見守りますが、ある日とうとう母がざりがにを料理してしまったのです! 皿の上に載ったそれは「ぼやけた灰色をしてゼリーをまとって」いました。数週間そのまま放置されたあと、 ある朝、皿は空になっていました。一本の脚だけが干からびたトマトソースとゼリーの中に残され、 父は生き返りどこかへ旅立っていったのです。
 この不思議な作品は次の一文で終わっています。「料理され、脚をなくしながら、 それでも父は残る力を振り絞ってさらに放浪の旅へ出かけていった、こうして私たちは二度と父を見なかった。」


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